はじめに introduction


私たちの生まれついての生物学的性別とは別に、

女はこうあるべきだ、男はこうあるべきだといった社会通念や慣習にもとづいた

役割や行動、話し方、などにも男女の違いがみられます。

 

こうした社会や文化によってつくられた男女の差を「ジェンダー」

 すなわち「社会的性別」といいます。

 

ジェンダーは、地域や文化によって異なり、時代によっても変化しながら、

日常生活の隅々に溶けこんでいます。そして、

人が成長する過程で知らず知らずのうちに意識の中に

「女らしさ」や「男らしさ」などの意識が深く植えつけられていきます。

 

私は、ことば、特に日本語の中に潜んでいるジェンダーに関して研究しています。

その題材としては、例えば、テレビドラマ、映画、吹き替え、マンガ、小説、

歌詞、教科書、などが挙げられますが、なかでも、

テレビドラマの若い登場人物の台詞の中や日本語教科書の中の女性文末詞使用、

および、教科書における日本女性像の描写について研究を深めてきました。

 

「日本語の中に潜んでいる」と言ったのは、

ともすれば、気づかないうちに見逃してしまうことがあるからです。

 

私たちが日常生活で使っていることばにも、よく観察すると、

ジェンダー・イデオロギーによることばや表現があります。

例えば、今までは、一般的には「会社員」というカテゴリーの女性であっても、

わざわざ「OL」や「キャリアウーマン」などと、

女性だけを特化した表現が使われていましたね。

男性社員にはそのような表現はなく、

男性社会で働く少数派の女性を区別してつけた呼び方です。

 しかし、これらの表現は、女性の社会進出が当たり前になった現在では、

差別語として認識されるようになりました。

 

また、年を取ると女性だけ「老女や老婆」などと呼ばれ、

これに対応する男性表現はありません。

また結婚した女性は「井上さんの奥さん」、「中村夫人」などと、

夫に付随した存在として認識され、

「井上愛菜さん」や「中村京香さん」というように

名前では呼ばれないことが多いのも

日本語の中のジェンダーの代表的な一例です。

また、女性は控え目で男性を陰で支えてこそ本来の姿だという考え方から、

積極的でエネルギッシュな女性は、陰では

「女のくせに」や「女だてらに」などと批判されることもよくあります。

 

一方、そのようなジェンダーに支配された表現は男性に関してもあります。

例えば、「男のくせに」「女の腐ったような(男)」「女々しい」など。

ただ、2つめと3つめの表現には、「女」という文字が含まれるため、

根源に「女はうじうじしていて優柔不断、それよりも程度のひどい男」

という意味も含まれており、

男に対する非難の前提に女性非難がすでに存在する、

というところにも問題が見られます。

 

これらはほんの一例ですが、単語だけではなく、

文末に現れる文末表現にも、男女の区別があるのが日本語の特徴の1つです。

現代ではすでに若い世代の女性(標準語話者)は

「あら、すてきね」「いいわね」「いくらかしら」「セールよ」などの、

いわゆる「女ことば」は使わず、

従来の「男ことば」である「あ、すてきだね」「いいね」「いくらかな」

「セールだよ」などを男性同様に使用しています。

これらの傾向は1980年代末頃から始まり、

90年代以後は、それを立証する研究も発表されています。

 

しかし、そうした、従来、女らしいとされてきた表現は、

時代が変わって現実社会では使用されなくなっても、

いまだにTVの台詞や洋画の中の若い女性の台詞にも

山のように使われているのです。

 

なぜ、現実には使われなくなったそのような表現が、

いまだに多用されるのでしょうか。

いかにそのキャラクターの特徴を際立たせるためだと言っても、

やはりそこに「女性は女ことばを話すものだ」「女ことばは女らしい」という

ジェンダー意識が影響していないとは言い切れません。

 

私達はともすれば、男女という性別にこだわり、

女としてどうか、男としてどうか、で判断してしまうことがありますが、

まずは、それ以前に「その人らしさ」を認め、それを生かし、

人間として互いを尊重し合いたいですね。

 

このページでは、特に、

自分が使うことばや表現の中に

どれだけジェンダーの思い込みがあるかということを

皆さんと一緒に考えるメッセージを発信していきたいと思います。

平成27年9月 

水本光美 (Terumi Mizumoto)